きたあつし MUSIC HISTORY

(1968)
誕生
(1977)
ピンクレディに狂う。グッズを集めたものです。今でも田舎の倉庫にもったいなくて袋から出せなかったパネルが眠っている。姉はツイストの世良さんに夢中になっていたが、彼がロックだという事に気が付いたのは何年も後の事だ。
(1982)
中学時代。姉の影響で洋楽に目覚める。姉の影響はデカかった。当時、出逢った洋楽はビリージョエル、ジャーニー、トト、フォリナー、クイーン、ビージーズ、等。エイジアのファーストアルバムの1曲目のイントロのスティーブハウ氏のギターを聴いて衝撃を受けエレキギターを買う。
(1983)
同級生とバンド結成。文化祭で初ライブ。
重松 実(ヴォーカル)鳩場カズ(ヴォーカル)北 敦志(ギター)島田英郎(ギター)小坂卓司(ベース)片山慎太郎(ドラムス)みんな、僕には永遠の親友です。ど田舎の中学だったので、教育委員会、PTA等、各方面からの反発が相次いだが、皆その実現に度肝を抜いた。水田先生、御協力ありがとう。バードロックに目覚め、ヴァンヘイレン、MSG、アイアンメイデン、ホワイトスネイク、ナイトレンジャー、ゲイリームーア、モトリークルー、ラット、ボンジョヴィ等に影響を受けた。当時の小林克也の「ベストヒットUSA」という番組は思い出深い。
(1984)
高校に入学。日本のハードロックに興味が行く。バウワウ、アースシェイカー、ラウドネス、浜田麻理、本城美沙子、ブリザード、X-RAY等。その後、インディーズシーンで活躍するバンドが続々と出現してきた。そういったブームでもあった。アンセム、スナイパー、リアクション、マリノ、プレゼンス、ダチュラ、TILT、ブレスレス、デッドエンド、等。面白い話で、音楽業界も全て繋がっている。僕が一緒にやっていた宮本英治に関与したのがメジャーデビュー後のデットエンドのYOUちゃんや、湊さんだった。湊さんはその前のサーベルタイガーの頃からの知人でそれを聞いた時はビックリしたものだった。それに、アンセムの坂元(現、アニメタル)さんは僕が後に結成する「GIRL」のドラムの若ちゃんと練馬マッチョマンというバンドをやっていた。TILTも凄くいいバンドだった。僕とはクサレ縁のスティングレイの鈴木治氏のレーベルで今も一緒にやってるらしい。
(1985)
「ZERO」というバンドで精力的なライヴ活動。島田啓介(ヴォーカル)北 敦志(ギター)宮崎 繁(ベース)藤田 剛(ドラムス)地元のラジオ出演(RSK、山陽放送のサンデーベスト、滝沢さんとモモちゃんの司会で毎週かかさず聞いていた。)やデモテープは500本を完売。今聴いてもこのバンドはクオリティーが高かったと思える。当時、地元のライブハウス「岡山ペパーランド」で現在も活躍するローリー率いる『すかんち』や、『ジュディ&マリー』の母体となった「プレゼンス」らと共演した。彼らが出演した(魔女卵)という映画は好きだった。「ダチュラ」と共演した時のカセットは今でも大切に保存してある。高校生の癖にプロ顔負けのいいライブだった。当時、お世話になった店主の船尾さんが経営する楽器堂にタムロ組の地元音楽仲間がたくさんできた。中でもブレイカーには影響を受けた。行本順子(歌がうまかった。後にバンドも組んだ。)玉城君(ギターをよく教えてくれた)今井一朗君(ブレイカーのベースでうまいと評判だった。上京してシャズナのイザムユニットのベースをやってたな〜。調布でしばらく共同生活した事もあったな。。)、ばんちゃんがヴォーカルの超うまかった先輩バンド、レディダンスも忘れてはならない。あとは、ミキさん(ジェノサイドのボーカルだった。)徳田君(そのジェノサイドのギター。最近も会ったが現スイートベイジル、元サンミュージックのディレクター。サン時代、東芝の三宅氏とよく仕事をしていたという話を聞いてまたビックリ。しかも今は知り合いの小野正利を担当している)大西君(ギタリストで僕が上京した時に一番世話になった。調布で、僕が部屋を見つけるまで泊めてくれていた。メシも食わしてくれたしね〜。徳田君と隣の部屋だったけどあの時2人には本当に世話になりました。。)ひさし君(彼はギターうまかった。デビューしたんだよねえ。)ヒデキちゃん(姉の同級生で上京してジュエルというバンドでうまくいってたんだけど近況は不明。)ケンさん(ベーシスト。ロックを教えてくれたね〜。ギターも教えてくれた。僕が上京した時もよくしてくれた。一緒に始めてあの「吉野や」なるモノを教えてくれて食べた。泊めてくれたり風呂に入れてくれたり、本当に感謝です。当時の僕は風呂なしだったから苦労してたのよ。)松原くん(ジューンブライドというバンドのヴォーカルだった。現在、飛ぶトリを落とす勢いの大物プロデューサー。ミーシャや平井ケン、小柳ユキやノリピーにも曲を書いた。当時の仲間の中で一番出世している。あーあやかりたい。)さっちゃん(バンドはやってなかったのにいつもいた。)雲内君、ビッケ、金城君、他にもいっぱいいたが思い出したら書きます。
(1986)
当時のボーカル島田啓介と上京。ダスキンで掃除のバイトをしながらバンド活動はうまくいかず島田は脱落した。現実は厳しかった。だがこの時、島田の友人の紹介で後に長い事一緒にプレイする事になる、金井信雄と、佐々木啓人に会う。ダスキンの長和さん元気かなあ。仕事仲間のボクサー須藤さんにボクシングを習った。
(1987〜)
新しく「キャバレー」結成。楢崎くん(ヴォーカル)北 敦志(ギター)金井信雄(ベース)綱沢 学(ドラムス)当時のブッキングマネージャー松谷氏は今でも現役。長い。ということで、そのライブステーションを中心にライブ活動。ここでは色々勉強になった。知り合いも増えた。ライブを含めて印象に残ってる人はPAを教えてくれたサウンドラジャの高沢 亮さん、佐野さん、ケイさん。現在はウルフルズ等のプロデュースで一躍有名になった太田要さんとそのバンド「KINO」、そのヴォーカルだった「街が泣いている」で有名な伊丹さん、モーションの克哉さん、ビーングのブルースセッションでブルースを教えてくれた近藤房の助さん、ブルースのハートを教えてくれたギターの和田さん、チューブの前田さん、ギターの塩次伸二さん、ハープの瀬尾隆一郎さん、「セクシャルバイオレット」の桑名正博さん、美しい声の桑名晴子さん、アースシェイカーのシャラさん、本城美沙子さん、ボラン(現T-BOLAN)の友森さん、後々ソニーで再会する事になった元ブリザードのセイジロウさん、GAOさん、これまた最近サンミュージックで再会した諸岡ケンジさん、エックスノメンバー達、ドゥームの藤田さん、諸さん、資生堂のイメージソングで有名になった小野正利さん(当時、彼はハードロックバンドをやっていて、よくタイバンした。)今でも友達気分のオーラのメンバー達(連中と野球チームを組み、チャーのチームとも試合をした。負けたけど、良い思い出だ。)現在HITOMIのバックでギターを弾いてるディファイアーの浅井ちゃん、一緒に働いた室姫シンというシャレた名前でデビューした元ダイ・イン・クライズの小島君。奴とバンドをやってたマッドカプセルマーケッツのメンバー、みんなゲンキですか〜?
(1990)
現、ルナシーの所属事務所の社長、坂の上氏の意向で「GIRL」結成。クニ(ヴォーカル)北 敦志(ギター)小松健一(ベース)綱沢 学(ドラムス)当時のカラーポスターは斬新だった。が、未完成のままライブとヴォーカル力のなさで大失敗(ちゃんとやってればルナシーにとってかわれたのに〜?)して、後にも後任のヴォーカルを探したが、結局なかなか納得は出来なかった。そんな時、東京ドームで、ブライアンアダムス、ヒューイルイス等が出演したライブでドンヘンリー(元イーグルス)の歌声を聴いてショック!メンバーを一新、自ら歌う事を決意した。北 敦志(ヴォーカル、ギター)少年(ギター)金井信雄(ベース)綱沢 学(ドラムス)毎月、3〜5本のライブ活動を行う。11/24TBS「イカすバンド天国」出演。完奏したが、グランプリはとれなかった。その後、ドラムが元レドラムのわかちゃんにチェンジしたが、アンセムの坂本の「練馬マッチョマン」に参加した為、後任は佐々木啓人に決まった。
(1991)
ふとしたきっかけで世良公則さんのライブを見て衝撃を受け、バンドメンバーを一新して、再スタートを決意。音楽的にも方向転換する。長かった髪を切ったのもこの頃だ。
順に金井信雄(ベース)北 敦志(ギター、ヴォーガル)原 衆(ギター)佐々木啓人(ドラムス)鈴木 治氏の紹介でボイストレーニングを受ける。その時の先生がなんと元キャッシュのドラム、ヒロ渡辺氏だった。(後に働く赤坂ロリーポップでの植田芳曉さんのバックメンバーとして来た彼と再会を果たし、それがきっかけで、ジョニーにも出演してもらう事になった。人生とは面白い。)それとは別にオーラとのセッションバンドでギタリストとして全国ツアーへ。忘れられない程、楽しいツアーだった。
(1992)
プロデューサー鈴木 治氏の紹介でビクターやら、クラウンからメジャーデビューの話が来たが、楽曲とサウンドに納得できていなかった僕はなんとその話を拒否!(若かった。。)その後の楽曲はかなり洗練され、ヴォーカリストとしても確立されたと思う。『石の上にも3年』とはよく言ったものだ。全国ツアーも行った。「赤坂ロリーポップ」でPAの仕事。森泰正さんと現スカーフェイスのてっちゃんに会う。当時は2人CCライダースというハコバンドをやっていた。2人のコンビは絶妙だった。
(1993)
ギターの原さんが脱退。その為この年はライブも殆ど出来なかった。「マージービート」でPA。内田聖治さんやバッドボーイズ、ワンダラーズ、ロカローラボーイズらと出会う。「芝居」ではリバティーズ、現チェインズのキューティーパイ、ラプチャー(現インプレッションズのジョーや相川七瀬のバンドのギタリストになった金井氏ら)と出会う。「38」でもPAの仕事をしたが、それらの仕事をくれたのは(カズエンタープライズ)現インプレッションズのサックス、井上シゲさんでした。人脈って大切ね。いつ役に立つか分からないけど。
(1994)
後任のギターに10代の頃から注目していた、三浦徹也とピアノに稲垣ヨシキ(現、ダブルボイス、内田聖治カンパニー)を迎え再スタート。自身の音楽スタイルがある意味では完成された。TBSラジオ「インディーズセレクション」で曲がオンエアされてワーナーやソニーSDからも注目を集めた。が、なぜかバンドサウンドの限界を感じ、ソロ活動を決意。「GIRL」解散。「ジョニーエンジェル」にオープニングスタッフとして入社。バックボーンズがハコバンだった。
(1995)
現在も強力なパートナーであるコンピュータと出逢う。マッキントッシュの475だった。シーケンスソフトはパフォーマー。新しい音楽制作活動に乗り出した。ダンスミュージックにも興味が沸く。ソニーミュージックアーティストのオーディションに合格。島田氏と出逢う。MCA(現ユニバーサルビクター)のオーディションにも合格。後藤氏に出逢う。セブンスエンタープライズ(吉川晃司や、種ともこ等の所属事務所)のオーディションに合格。その繋がりで東芝の三宅氏から宮本英治とのユニット「FREEZE」を結成する。各方面でアーティスト育成期間に入る。すぐにデビューとは問屋がおろさなかった。
(1996)
ソニーで新人アーティストだった田中貴代美をプロデュース。残念ながら出版は見送られたが、今はアニメソング等を歌っている。頑張って売れて、僕と作った曲も出してほしい。東芝EMIとセブンスエンタープライズを中心に楽曲制作活動し、デビューの日程も決まりかけた頃、同事務所の吉川晃司がレコード会社を移籍した事によって話はオジャンになった。その為「FREEZE」は所属事務所をサンミュージックに移籍。再出発しなければならなかった。この時期、元、桑田バンドの河内淳貴さんの繋がりで彼の所属事務所からアニメソング制作のオファがある。河内さんは当時、「マクロス」の制作に関わっていたのでその繋がりだと思う。。現在ではアニメソングと言っても一流のアーティストが担当していたり、結構カッコいい曲もあったりしてなかなかバカに出来ない所もあるのだが 当時の僕はアニメソングだと聞いただけで抵抗を感じていた。事務所の人の「東芝でうまくいきそうだったらそっち、やってた方がイイかもね」と言う言葉に甘えていたのも事実あって、僕はまたあえなくその話を断わってしまった。(ここまでくると自分でも馬鹿だったとしか言いようがない)

(1998〜2000)
デジタルパフォーマーにアップグレードし、ハードディスクレコーディング時代に突入。そんな中で音楽ソフト『Pro Tools』との出会い。それまでの制作スタイルが一変し、自宅でCD並みのハイクオリティな作品作りが可能になった。東芝での制作活動も順調に進んでいたが、担当の三宅氏が宇多田ヒカルをプロデュースし、世紀の大ヒットを記録。『FREEZE』の音楽性も大きく変化していった時期なので、メーカーとの意見の食い違いが次第に膨らんでいく。再びソロアーティストとして生きる事を決意し、密かにアルバム『Cracking:/Motherbord』(未発表)を完成させる。自身では最高の出来だったが、業界では余りにも完成されたクオリティが災いし、プレゼン受けしなかった。ネガティヴ過ぎた歌詞もマイナスだったナ〜。それでもバンドメンバーを集めリハーサルを敢行したが、ギタリストが狂乱?。この企画も次第に消滅していった。しかし、自分ではこのアルバム『Cracking:/Motherbord』(未発表)には誇りを持っている。このアルバム作りに費やした時間とパワーは凄かった。だが、今聴いても凄いクオリティだと思うが、やっぱり日本のメジャー土壌には合わないな。。強力なインディーズ作品です。サウンドもネット上で公開しています。
(2000)
第一期ジョニーエンジェル経営破綻。新オーナー横山氏とジョニーエンジェル再建の為、自身の音楽活動は休止。この年の終わりアルバイトに大ちゃんが返り咲く。しかも妙に痩せていて誰もがビックリ。
(2001)
あっという間に第2期ジョニーエンジェル経営破綻で必然的に第三期へ。正式には3月から自分達で運営する事を決め、元オーナーと契約を交わす。とはいうものの、2回も破綻した店をどうやって経営していくか。僕達が出した意見は一つだった。とにかく必要経費を押さえる事。KITA&DAIの『リトルロックブラザーズ』の誕生である。何年もこの業界に居ながら初めてオールディーズを覚えた。途中からベーシストにナオヤを迎え、毎月独自のスタイルでライヴを行う。更に営業用としてドラマーに元クリスタルキングの高木和好を向かえ、別のバンド『KITA BAND』を結成、ベースにナオヤ、3ピースの骨太なサウンドのロックンロールバンドだった。後にピアノ&ヴォーカルに元イエローキャブの清水真理が加入し、4人バンドになり幅を広げる。年末にはそのバンドの進化型として、キーボードに藤原裕子、女性ヴォ−カルにユッキーを向かえ『ジェリービーンズ』と改名。
(2002)

周辺器機をアップグレード、再び制作活動を再開。共同経営者だった、DAIが辞め、4月から正式に独立。『リトルロックブラザーズ』解散、「LR-Bros」グループ名として引き継ぐ。その流れをくんだ新たな営業用バンド『TRAP』を結成。新人の女性ヴォーカルのカオル、同じくドラマーに西海を起用。週イチペースでのライヴを行う。8月にはLR-Bros Music Projectを立ち上げ、ADのAZZと共に音楽制作を中心にプレゼンを行う。そのヴォーカルにはブルーストラップの道林裕子を起用。そして、更にRS-Projectの制作を本格的に開始。